二人で考えすぎるブログ

二人で、考えすぎずに書く練習をしています。

超超超今更「君の名は。」を見たよ

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新海誠監督の作品は

以前に「秒速5センチメートル」を見たけど、全く肌に合わなかった宇井都です。

ので、劇場公開中も気になって気になってはいたけど(あまりに話題になってたから)

どうかねー、でもきになるねー、でスルーしちゃってた。

今回レンタルが可能になったので、amazonからレンタルして見ましたよ、「君の名は。

ネタバレとか何も気にせず、以下感想です。

全く乗れなかった…

いやー、結論から言うと全然乗れなかったですね。

そもそもの問題として、主人公2人のキャラクターに全く魅力を感じることができなかった。これが致命的だったと思います。

そもそもあの二人、あんまキャラ立ってなくないですか?

三葉ちゃんにしても瀧くんにしても、あまりキャラクター性を感じさせる描写がないんですよ。

三葉は普通の女子高生、小さな街で、こんな街やだとか思ってて、神社の娘ってことで何かと目立っちゃってクラスで陰口とか叩かれてて、でも言い返せないおとなしい性格で、東京に憧れてて…とか、そのくらいの事しか描かれてない。あと、頭にリボンとか巻いててちょっと痛い子なのかなっていう…(ここを突っ込むのは無粋なんでしょうけど、そもそも他の部分で魅力を感じないから、突っ込みたくなっちゃうのよね)

瀧くんも瀧くんで、なんか「喧嘩っ早い性格だよね」みたいなこと言われてたくらいで、それ以外の部分で何か個性を感じる部分って特に、ねぇ。

しかも二人の人格が入れ替わった状態での描写が多いもんだから、なおさら「そもそもどういう子なのか」っていうのがさらにわかりにくいっす。

なんで好きになったの…?

二人の人格に魅力を感じないもんだから、二人が惹かれあってる、みたいな描写が始まった瞬間、

「んえっ」って声出た。

なんでなんでなんで?どこが?どうして?

せめてなんか、わかりやすいシーンを入れてくれたら良かったのにと思う。

瀧くんが三葉と入れ替わっている間に、三葉の悩みをちょっと解決してくれるとか、

三葉が瀧くんの方で生活してる間奥寺先輩との仲をマジで接近させようと奮闘してくれるとか(あれ別に奮闘って感じじゃなかったよね、瀧くんも特に喜んでる風でもなかったし)なんか、まあ、なんでもいいんですよ。

あ、二人は徐々に惹かれ合ってるのね、みたいな助走が欲しかった。

それが何もなしに、お互い罵りあってたのがいきなり

「瀧くんと奥寺先輩がデートかあ」みたいなので涙流されても、ええええ?ってなっちゃって。

「二人の恋愛スイッチが入るシーン」を入れるのって絶対簡単なのに、なぜ入れないのか。「無粋でしょ」ってことならそれはそれでいいんだけど、それを入れなかったことがそのあとのストーリーの上で生きているようにもあまり思えなかったし、何度も言うけどそもそも二人のキャラクターにも魅力を感じてなかったのでとにかく二人に全く感情移入できず、そのあとの展開に対してめちゃくちゃ白けてしまった。

しらけてるから、三葉がいなくなったことへの喪失感も絶望もない。

二人がお互いを忘れていってしまうことへの切なさもない。

そんで細かいことがいちいち気になってしまう。三葉の服装がクソダサいとか、先輩のキャラクターもスカスカだなとか。

「あー、なんかこういう感動話が書きたかったんだなあ」みたいに感じちゃう。そんなことないんだろうけども、さあ。乗れないのですよ。本当。

新海誠監督の恋愛観について思うこと

秒速5センチメートル」を見たときにも思ったのですけど、

新海監督は「恋心」というものを、もしかしたらすごく神聖視しているのかなあと。

「秒速」にしても「君の名は」にしても、ずっと前に恋をした相手を忘れられない、忘れたくない!という、数年越しの恋、みたいなものをすごく美しく描いていて、もうそこの点が私からすると(あくまで私からすると)すごくズレているように感じるのです。

10代の頃の恋愛感情なんて、確かにものすごいエネルギーを持ってはいるけど、そのエネルギーの内訳と言ったら、自己愛・執着・性欲であって、相手なんかほとんど置いてけぼりのナルシシズムの成れの果て的な(難しいこと言おうとして失敗)、

まあとにかくそういうね、浅はかなものであるというのが私の考えで。

でも、そういう浅はかな感情を通してこそ人は成長できるし、そういう未熟な愛情で傷ついたり傷つけられたりする中で、本当に相手を見て愛するってことを学ぶんじゃないっすかね、みたいな感じなんです。

多分これが私の恋愛観。

で、「秒速〜」の方は、まだ、私のような恋愛観の人間でも、自分の方に寄せて見ることができたんです。

なぜなら、最後に二人がくっつかないから。

そして最初から最後まで男の目線で描かれていて、女の方の視点が無視されている分、

「幼い恋愛感情をこじらせてしまう男の無様さを描いた作品」と受け取れなくもなかった。

それにしちゃあ余りにも、自己陶酔的な描写が多いっすねえとは思っていたけど、まあまあそれも、ある意味皮肉な描き方だと取れなくもなかった、いや取れないけど、まあまあ。

でも、「君の名は。」を見ちゃうと、やっぱり、、やっぱり新海誠監督にとって、「ずっと忘れられない。忘れたくない恋」みたいなものって、どこまでも美しいものでしかないんだなと。「秒速〜」もやっぱり、その美しさを前提とした「切ないね」って話なんだなと。

そうなると、もう全然合わないのですよねえ。

相手に会わずに数年越しの恋してる奴なんて絶対やばい

やばい。それはただの妄想だぞ。

人間というのは想像よりずっと汚いものなので、「君の名は。」でめでたく出会い直した二人は、きっとすごい勢いで冷めていくのだろーなというのが、私の素直な感想です。

別に会話してる間に鼻毛が出てたとかそういうことじゃないのよ。100年の恋も冷めるって。

「昨日記念日だったのになんで連絡くれないの!?忙しいとか言うけど、インスタは更新してたじゃん!」

「用事ないのに電話してくんのやめてくんない?俺、重い女って無理なんだよね」

とかのしょーもない怒りや欲望のぶつけ合いがあるんだよ、リアルの男女関係には。でもそれでいいんだよ。しょうがないんだよ、お互い未熟なんだもの。

けど、想像上の相手に恋をしている人は、そういうぶつけ合いに耐えられないんじゃないの?結局、相手のことなんか受け入れられないんじゃないの?

って私は思います。

こういう話をすると、

「フィクションにそこまで求めるなよ笑」とかって言う人いるけど、

フィクションだからこそ、思想や哲学をまっすぐに反映して表現できるわけじゃないっすか。だからそれは甘えだと思うのよ。

って言うか、そういう態度でフィクションに接するのは、フィクションを舐めすぎでしょう。

 

以上でございます。

宇井都

徒然なるままに2

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こんばんは。先程、大分県国東半島から戻ってきました十専口人です。朝3時起きで、往復2時間半の山登りを終えて帰ってきました。もう眠いし、体ボロボロです。写真は豊後高田市の中山仙境です。

今回は日々の生活の中で思うこと、考えることをまとめてみました。

捉え方ひとつで人生変わる

“困難”を“チャンス”と捉える。
“失敗”を“成功への一歩”と捉える。
“できない理由”を“できる理由”と捉える。
“夢”を“現実”と捉える。

捉え方一つで、生き方が大きく変わります。
だから、『一瞬で人生が変わる名言集』なのだと思います。

私も過去に物事の捉え方を変えてから、人生が大きく変わりました。
それは、全ての原因は“自分”にあるのだと捉えることです。
自分の周りにいる人も環境も、全て自分が選択した結果です。
嫌なら変えることができるし、それができるのも自分だけです。

変わるのを待っていても何も変わりません。
変えたいのなら、自分が変わること。
それ以外に方法は無いと思います。

自分以外に主導権のある人生なんて嫌です。
だから、全ての原因は“自分”にあると思いますし、“自分”で変えられると信じています。

ものの価値

ものの“価値”はどうやって生まれるのか?
私は、それが“体験”と“ストーリー”にあると考えています。

甲子園出場時のグラウンドの砂は、出場した者にしか分からない価値があります。

ただの野球ボールが、イチローのホームランボールだと分かった途端に価値が上がります。
イチローに全く興味のない人にとっては、ただのボールです。

価値を決めるのは“人”です。
人の数だけ価値が存在します。

そう考えると、価値はいくらでも創造できる気がします。
この世に売れないものは何一つ無いようにさえ思います。

世間のニーズや市場に合ったサービスを考えることも大切ですが、未だ無いところに新たな価値を感じさせるサービスを生み出すことも大事です。

その答えが“体験”づくり、“ストーリー”づくりにある気がします。
どう作っていくのか、どう仕組み化していくのか、答えはまだ出ませんが、これを追究していった先に、大きなビジネスのヒントがあるように思います。

全ての事象は必然である

過去に起きたこと、今起きていること、これから起こること。
全てに意味があると思います。

現実に起こっていることは、自分に何かを伝える為のメッセージ。
良いことも、悪いことも。
振り返ると全てに意味があったはず。

そう考えると、一瞬一瞬の出来事がとても大切なものに感じます。

私が今の会社にいる意味も何かあるはずです。
いつの日か点と点が繋がって線になるその時の為に、今を一生懸命に生きます。

聴くこと

コミュニケーションとは、自分が思っている事を自らの言葉で相手に伝える事ではなく、相手が理解する言葉で自分の思いを伝える事。

ボキャブラリー豊富で良い言葉を並べたとしても、相手に伝わっていなければ何の意味もありません。
例え拙い言葉であったとしても、相手に理解されることの方が大事です。

心遣い一つ。
「言う」より「聴く」。

自分の言いたいこと以上に、相手の言いたいことに耳を傾ける。
その背景にある想いが分かるまで、ひたすら耳を傾け続ける。
それが、コミュニケーションの第一歩だと思います。
言いたいことを言うのは、その後でも遅くないはずです。

以上

 

by 十専口人

おやつのことばっかり考えて暮らしたい

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最近、何かに問題意識を感じたりとかそういうことから遠ざかっていて、

ただ淡々とした日常が楽しい。

よってブログの内容は薄くなるのですが。

宇井都です。

写真は、今日調子に乗って食べたケーキです。

美味しかったけどめっちゃ甘かったです。

 

他者や社会に目が向いていない分、自分自身のことが気にかかっていて、

自分がこれからどう生きていくか、どうやっていきたいか、

ってことがここんとこんテーマ。

本なども読んでいる。

 

自己啓発本って、内容をそのまま鵜呑みにするよりは、筆者はどういう人間で、どういう意図でこれを書いたか?

自分はそれについてどう思うか?

みたいなことを考えながら読むと割に楽しいものである。

 

極論言ってしまうと私は、人生に意味なんかないと思っている。

 

ただ生まれて死んでいくだけ。その間に何をやろう。

 

私は大事なこと、有意義なことより、どっちかというと無駄なこと、無意味なことが好き。お米やおかずのことよりおやつのことが気にかかる。

おもちゃとかおやつって優しい世界である。誰かを楽しませるためだけに存在するものたち。嗜好品。非必需品。可欠品。

 

私はおやつのことばっか考えて暮らしたい。

最終的にはおやつになりたい。私自身が。

将来の夢、おやつ。

余裕がなくなったら真っ先に切り詰められるジャンルだけど、それならそれで構わないじゃーないか。

 

まあ何が言いたいかっていうと今はなんか、真面目なこと考えたくない気分なのである。考えたくないってか、言いたくない。

 

各々が幸せになったらいいなあ、なるべく。

おやつとか食べてさあ、昼寝とかしてさあ、なんかそんなんで、世界が回ればいいのにねえ。

 

(今日はおそらく糖質の取りすぎで頭が回っていません(?))

 

以上でございます。

 

宇井都

これからの時代を生き残るには

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こんばんは。大分県豊後高田市に撮影に行っていました十専口人です。昭和の町という何とも雰囲気のある町を舞台に撮影していました。

もうそこに住む人たちが素敵すぎました!お店の前を通るだけで「暑かねー」とか「何の撮影ね?」とか、バンバン話しかけられます。その距離感の詰め方がなんとも心地よくて、一気にその町の一員になれた気がしました。

これからの観光地は、こういった「人の魅力」がキーになってくると思います。

時代を生き残るキー

人の魅力とは言っても、こう作ろうと狙って作れるものではありません。世間で「親切」や「真心」といった言葉で表現されるもの。私は、これからの時代を生き残っていくのは、こういったものが必要だと考えています。

ITの発達で、時代はどんどん便利になっています。誰でも簡単に意見を発言する場が作れ、ボタン一つで物が買える時代。本当に素晴らしい技術革新だと思います。

しかしその反面、意見しか言わない人が増えました。実物も見ないで物を買うのが当たり前になりました。そして、周囲が同調し、増長させる傾向。長いものには巻かれろ精神が万延しているように思います。

私が危ういなと思っているのは、本質を見ようとする大人がどんどん減っていることです。全てがその場しのぎの対応・対策に思えて仕方ありません。
いとも簡単にモノや情報が手に入るので、わざわざ苦労して手に入れる必要もなくなりました。その為、自ら動いて手に入れる人は少なくなり、コピーや真似事が増えました。更に、自分でオリジナルを作り出そうという人は、もっと少なくなりました。

簡単に手に入れることが悪いことだとは思いません。私も頻繁に利用しますし、もっと便利になれと思うことだってあります。ただ、それで思考や行動が止まってしまわないことが大切です。手に入れることより、どう使うか、何の為に使うのかの方が大事です。

最近は中身のないものに人がよく集まるなーと感じます。見栄えが良いもの、見た目がかっこいいもの、面白いもの、話題になっているもの。世間でヒットとされるものは、大抵そこしか注目されていません。これが資本主義の落とし穴だと考えています。

資本主義の落とし穴

資本主義の下にいると、どうしても「お金の為に働く」という感覚は拭えません。消費者が集まるもの、関心を持つものに必然と仕事が生まれます。皆が騒ぎ立てれば立てるほど、それをビジネスチャンスと、金儲けを狙う人々が必ず出てきます。そうやって生み出された商品やサービスに「心」は存在しません。だからコピーや真似事が平然と繰り広げられるのです。

しかし、本来モノや情報が生まれた経緯は、本当に必要だから作られたという事だと思います。もう一度、その初心に返るべきです。変わるべきは消費者たち。消費者が変われば、企業が変わり、世界が変わります。それが資本主義です。

今の消費者は、与えられ続けるのに慣れた大人たちです。だからこそ、与える側、生み出す側になる必要があります。その為にはどうしたら良いのか?まずは一度、立ち止まってじっくり考えてみましょう。

本当は何がしたいのか?

その為に、自分には何が足りないのか?

その足りないものを補うには、どうしたら良いのか?

そう考えていくと、自分から生み出す側に回らなければ仕方のない状況だと分かるはずです。

企業も同じです。本当の利益とは何か?それを探求してくと、心のない商品やサービスは生まれないと思います。

皆が秘めてるパワー

人の魅力は、やはり「心」にあると思います。これは人間にしか付加できないもので、それを感じることができるのも人間だけです。形はないし、目に見えないものですが、一瞬で大勢の人を幸せにもできるし、絶望させることもできる強力なパワーを秘めています。そんな世界を変えることのできるパワーを皆が持っているという事を、もっと多くの人が気づくと良いなと思います。

 

by 十専口人

私たちに与えられたのはこの体だけである

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であるからして、

この体をいかに良い状態に保つか?

という視点はすごく大切だなーと、最近思っている。

人生の中に体があるのではなく、体の中に人生がある(正しくは、脳の中に)。

 

体と脳は密接に絡み合っているのだけども、

いわゆる現代的な生活においては、人間の脳の部分にばかり焦点が当たっており、あまりにバランスが悪い。まるで、人間とは脳みそであって、体とは単に脳みその入れ物である、というふうな扱われ方をしている。

(特に男性にはその傾向が強いと思う。女性の方が自分の身体について考える機会が多いからなのかもしれない。)

コンビニには脳を刺激するためだけの飲食物がたくさん売られている。ガムやカップ麺、ジュースや酒、お菓子、その他ジャンクフードなど。パンや弁当も、脳を刺激する部分をもっとも重視して作られている。

コンビニのお客さんは私たちの体でなく脳みそなのですね。

スマホも、ものすごく「脳みそ」的なアイテムだ。以前なら、情報の収集には本を探したり、探した本のページをめくったりといった身体的な要素がもう少し絡んでいたし、パソコンだって、スマホよりは身体的である。

タイピングは身体的で、フリック入力は脳みそ的だ。

 

だからって別にそれが悪いと言っているわけじゃない。

中高生に電子辞書を使わせず紙の辞書を使うよう強要するみたいな話馬鹿げていると思う(私が中高生の時にはそういうのあったんだけど、最近はどうなんだろう)。

便利なものは便利だから、自由に使ったほうがいい。役立てたほうがいい。

私自身スマホもパソコンも、とにかくコンピュータが大好きだし、その進化にはものすごく期待している。

 

しかし、だからこそ、自分自身の身体性をもっとしっかり意識しておかなければならないと思う。

 

五感を刺激して体の感覚をフルに使っていないと、脳みそも弱っていってしまう。

脳みそを健康に保つために必要なのは頭の体操ではなく、体の体操である。

重ねて言うが、脳みそはあくまで内臓、体の一部なのだ。脳みそが体を支配しているのではない。体が脳みそを支配している。

だからジャンクフードばかり食べていると脳みそは喜ぶが、体が疲弊していく。結果として、脳みそも弱っていく。

スマホから得た情報は、五感で得た情報ほど脳の栄養にはならない。栄養をとった気になっているけど、いつも脳は乾きを訴えているような感じがする。

 

他人にどうこう言うつもりはないけれど、

そういうことを最近考えている。

意識して体を動かす。

意識して情報をとりに行く。

意識して五感を刺激する。

意識して意識を殺す。など。

脳ばかりを働かせていると、体と一緒に共倒れになってしまう。

 

というわけで最近、バランスボールを椅子にして仕事するという、意識高い感じのことをやってみたりしている。それだけで結構、背骨や筋肉に意識がいく。

偏ってはダメだ。何事も。

 

宇井都

たまには詩的に

隣の芝生は青い。

なぜそんなに青いのか?
自分の足元を見てみよう。
うーん、やっぱり隣の方が青い。なんで?
目をつぶってみよう。
しばらくして目を開けて、最初に自分の芝生を見てみる。
あれ?さっきより青くなった気がする。

ん?よく見ると隣の芝生より青いじゃないか。
なんだ、目の錯覚か。
結局、最初に見た芝生が青く見えるんだ。
あれ?あっちの芝生は赤いぞ…

 

あの山に登りたい。
でも、道具持ってないしなー
買うと高いしなー
レンタルにしようかなー
それとも誰かに借りようかなー
とりあえず登ったことある人に聞いてみよう。
うーん、どの道具にするか迷うなあ。
あの人はこの道具が良いって言ったよなー
でも、あの人はこっちの道具が良いって言ったしなー
うーん・・・
うわ!あいつもうあんな所まで登ってるよー
俺も急がなきゃ。
あれ?俺なんであの山に登りたいと思ったんだっけ?


あの山の上にはお宝があるらしい。
何とかして上まで行きたいなー
しかし、いくつも道が別れてる。
どの道を行くのが良いのだろう?

 

ある人は、平坦な道を勧めてくれた。
体力はそれほど奪われない。
汗をかきたく無い人にはオススメだ。
ただ、ひたすら長い。
とにかく長い。
生きている間に頂上につくか分からない。
でも、それで良いじゃないかとその人は言う。
何をそんなに急ぐ必要がある。
急いで苦しい思いするなら、のんびり楽に行った方が良いじゃないか。
それに皆で歩いたら、途中で死ぬのも怖くないよ。
だから、一緒に行こう。
大事なのは、お宝より友情じゃない?

あ、あの人も誘おうよ。
あ、あっちの人も。
皆で歩けば怖くないからさ!

 

ある人は、馬に乗って行くのを勧めてくれた。
この馬はサラブレッドだからねー
高いよー
でも、買う価値はある。
だって、乗れば何一つ苦労せずに頂上に行けるんだから。
お得だよー 楽だよー
今を逃すともう会えないかもよー
ほら、あの人だって馬に乗ってるんだから・・・
はい、まいどありー
ところで、馬の乗り方は知ってるんだよね?

 

これを行けば間違いないという道はない
生まれて初めて歩む道なのだから
走るも良し
途中で休むも良し
誰かに聞くも良し
一人で探索するも良し
誰かの跡を追うも良し
一緒に歩む人を探すも良し

でも行き先は自分しか分からない。
自分しか決められない。

どんな道でも自分が歩んできた道に言い訳はできない。
紛れもなく、それはあなたが歩んだ道なのだから。
この先もずっと。

 

by 十専口人

怒っているということは多分、囚われているということだ

 

今日は本当に思っていることを書いた日記になりそう。

まあたまに、いや頻繁にそういうのやってるけど。 宇井都です。

 

もう世間に対して怒るのを終わりにしたい、ということを最近思っている。

怒っているのは多分、気にかけているからだ。世間の一員でいたいからだ。

 

先日、Yahoo!知恵袋で「先輩ママ」が「新米ママ」に対して盛大に説教かますのをぼーっと眺めながら、

唐突に、もう気にかけるのはやめよう、と思った。

 

いつか世の中に受け入れられる人間になれるのではと思っていたし、

持ち前の器用さによってそのような雰囲気だけは作っていたけど、

私のもっと根本的な部分が、ずっと苦しみっぱなしになっている気がする。ていうかつまらんのである。

 

小さい頃から、子供らしさを押し付けられるのがとても嫌いだった。

成長すると女らしさを押し付けられるようになり、それがまた苦痛だった。

大人になってどうにかこうにか器用にやれるようになってきたけど、

妊娠したら今度は、「母親らしさ」というのが始まった。

 

これは子供が生きている限り今後ずっと続くだろう。

ももう私は耐えられないと思う。いや、耐えたくない。

もうどう思われようが知ったことではない。

むしろ率先してダメ人間、ダメ女、ダメ母になってやろうではないか。

 

世間よ、私を見て笑うがいい。

 

私の子供は「かわいそうな子」と呼ばれるようになるだろう。「ダメ女の子供」みたいなニュアンスで。

だがそれも知らん。それは子供自身の問題だし、どのみちそんなことを気にしてたらろくな人生は送れない。申し訳ないけれど、そこは受け入れる強さを身につけてもらおう。頑張っていただきたい。

 

友達のことも家族のことも、一切を私の後回しにしようと思う。

自己犠牲なんかクソ食らえである。私は私が幸せになるために生きる。
そんなことをしたら周囲に嫌われるかも、みたいなのはもうやめよう。

それで嫌われるなら結構だ。どんどん離れていくがいい。
まあでも実際のところ自分が幸せになったら周囲にももっと愛情を持てると思うから、そこは楽観している。

 

いい子ごっこはもうおしまいにしなくてはいけない。

 

多分それが大人になるってことなんじゃないだろうか。

クズだらけの世の中で、自分だけがいい子でいようなんてムシの良すぎる話である。

私もどうせクズなのだから、どうせなら幸せなクズになってやろう。

 

というような最近である。

 

私はこれからどう変わっていくのだろうか。

人はいきなりは変わらない。少なくとも周囲から見れば。

ただ何かが決定的に、私の中で変化しているのがわかる。

もうこれは止められないだろう、ということがわかる。

 

少し怖い。世間に見放されるのは。異端になってしまうのは。

でもこの恐怖に慣れてしまえば、もうほとんどのことは怖くない、のかもしれない。

来年、再来年が楽しみだ。

どんな別人になっているだろうか。

 

宇井都