「わたしを離さないで」人間は虫けらのように死ぬということ
小林麻央さん死去のニュースを悼むたくさんの人の声が、なんだか私には息苦しく、いや腹立たしく思える。
有名人のあまりに劇的な死、誰もが悲劇として「描く」欲望を抑えきれないようなあの死。人の死さえコンテンツとして楽しんでしまう人間の性を、私は悲しく思う。
ご冥福をお祈りしますなんて言っていられる余裕、かわいそうとか悲しいとか言っていられる余裕、「私も毎日を大事にします」とか言ってられるその余裕。
その余裕が生まれるのは、結局、他人事だからだ。自分には関係ないと持っているからだ。
人は驚くべきことに、ゴミみたいに、虫けらみたいに、アッサリと死んでしまうということを、頭ではみんな知っている。でも、ちゃんと理解していないのだ。だから他人事でいられる。
「人間は虫けらのように死ぬ」ということ。「人間の希望は無残に奪われる」その事実を目の前に叩きつけられたことがあるかどうか。嫌だとどんなに叫んでも、あまりにも大切なものが、運命か何かの風向きでアッサリと消えてしまうということ。それを認めるしかない、受け入れるしかない。その絶望を感じたことがあるか。
私にはある。あるというのもおこがましいけど、少なくともその絶望を垣間見たことがある。だから、私は真央さん関連のニュースは見たくない。他人事ではないから。というのもあるけど、もっと大きいのは、他人事だと感じてしまう自分が嫌だからだ。人の死を楽しみたくない。詳しいことを知ったら楽しんでしまいそうだし、それを楽しむのは下品としか思えないから、見たくない。
「わたしを離さないで」という物語
人の死と、それを消費することについて考えている時にいつも思い出すのが、「わたしを離さないで」。
私がまさに「人はアッサリと虫けらのように死ぬ」ということを目の前に叩きつけられて暗闇に放り出されたような気分になっていた時、偶然見た映画です。
カズオ・イシグロの原作も読みましたが、映画から入った私にはやはりそちらの印象が強いです。日本版ドラマは見ていません。
何を話してもネタバレになってしまうので中身についていろいろ言いたくはないのですが、
簡単に言うと、
この物語は「守りたくて必死にもがいたものを、驚くほど軽く奪われてしまう」という悲しい運命を背負った人々の話。
そして、実はそれは、物語の鑑賞者である私たちの大多数が持つ運命そのものでもある、ということも同時に見せつけてくるのです。
「私たちの行く末には、結局絶望しかない」ということを、すごくわかりやすくデフォルメして表現した話なんですね。
私がこの映画を見て感じたのは、「私はこの絶望をまさに今体験している」「人は皆いつか、こういう絶望を味わうのだ」ということで、そのことがものすごく悲しいような、でもすごくありがたいような不思議な気持ちになって、メチャクチャ泣いたのを覚えています。
そういう感想をもったのは、私がその時特殊な状況にあったからかもしれない、とも思います。実際、いろんな人のレビューを読んでみると「泣ける感じのSF作品」として片付けている人も少なくない。しかし、私と同じような絶望を知っている人ならば、この作品を私と同じように味わうだろうと思います。
私たちの行く末には、結局絶望しかない
私たちはいつか死にます。肉体的に、または精神的に。
死に方は選べません。私たちのうち大多数が「こんな死に方はしたくなかった」と思いながら、絶望とともに死んでいきます。
穏やかに死を受け入れられる場合もあるでしょうが、そこに絶望があるのは変わりないのです。
私たちの行く末には絶望しかない。
死は全く他人事ではない。いつかはあなたの番がやってくる。絶対にやってくる。どんなに暴れても嘆いても。あなたの番の前に、あなたの愛する人の番がやってくるかもしれない。そんなとんでもないことが、耐えられないような辛いことが、私たちの人生には起こる。いつかは絶対に。
人の生き方より、自分の生き方を考えよう
と、どうしても思ってしまう。
誰かの人生を、不幸だったいや幸福だったなんて語る前に。あなたはどうなのだ。
幸せですか?たとえ明日死ぬとしても?本当に?
批評している場合なのか?そんな余裕があるのか?明日死ぬかもしれないのに?
「本当に明日死ぬかもしれない」のに?
どんなに見ないフリをしていても、いつだって絶望は私たちの真横に横たわっている。
まとまりがつかないけれども、実際、気持ちがまとまってない。
これはこれでよしということにして、今日はおしまい。
宇井都