二人で考えすぎるブログ

二人で、考えすぎずに書く練習をしています。

優しい人ってどんな人?

筋トレ後で手がうまく動きません。。宇井都です。

今日は「優しさ」について書きます。

私は優しい人が好きです。でも、優しい人が好きすぎる、優しさを尊びすぎるゆえに?

優しいという言葉に対してやたら厳密というか、厳しい、うるさいです。

「優しい人だよね」「あの人優しいよね」「優しそうだよね」って、

もはや決まり文句のように気軽に使われますが、

どーも違和感があるんですよね。優しい人なんてそんなにいない。全然いない。

だからこそ優しさは尊いのですよ。

受け身でいれば優しいと言われる謎の風潮

世間一般で使われている「優しい」の像って、

いつもニコニコして控えめで、他の人に意見を合わせてしまう、柔和で穏やかな感じ、自己主張をしない感じだったりしますよね。

「何食べたい?」って聞かれて、「なんでもいい」って答える、

「どこ行きたい?」「みんなが行きたいとこでいいよ」みたいな態度。

でも私の感覚としては、そういう人は

「主張しない、受け身でいるという戦略をとっている人」であって、優しい人ではない。ここらへんを大して深く考えない人が多いなと思う。まあ別に考える必要もないんでしょうが。

受け身でいることは楽なんですよ。結構賢い戦略です。すごく得することもないかもしれないけど、大きく損をすることも少ない。なんたって、責任を負わなくて済むんですから。

こういう態度にはすごく卑怯なところがあると個人的には思います。

おそらく本人もそうとは意識しないうちに周囲に責任をなすりつけていたり、状況を変えようとしないまま、不満を抱え込んでいたりする。

不満を抱えるのは本人の問題だからいいじゃんという意見もあるでしょうが、私はそう思いません。不満な人には場を澱ませるオーラが漂うので。

 

特に女性は、優しい女だと思われたい一心で周りに合わせたり自己主張を押さえ込んだり過度に謙遜したりすることが多いように思います。そういう態度が美徳だとされがちなのが問題なんですけどね。

こういう「優しさ」は、本人も周囲も幸せにしないので、私は全然好きではないです(私に好かれる必要がないのはわかってます。念のため)

メリットを追求した行動も優しさではない

これも本当にねー、ありがちなんですけど、

上司からの無理難題を笑顔で承諾したり、好きな人に高価なプレゼントをしたり、彼氏のためにご飯つくったり、彼女のためにサプライズ企画したりするのは優しさではないです。

相手に気に入られることによって何らかのメリットが期待できる状態において、相手に優しくできるのは当たり前です。まあ、その当たり前さえ出来ない人も多いですけどね。

ツボを押さえた気の利いたサービスができる人間というのは、単純に気がきく人出会って、優しい人ではない。

もちろん、気がきく人は素晴らしいですよ。想像力があって賢くなければ出来ないことです。でも、それはやっぱり、優しさとは違うんですよね。

じゃあ優しさって何だ

っていう話になるんですが、結構単純な話です。

「自分の利益とは無関係に、他人の喜びや安らぎのために労力を使えるか」どうか。

コレをできる人は、間違いなく優しい人です。

得なんか何もないのに、それどころか損しかしないのに人のために動けること。

こういう種類の優しさは滅多に見れません。

そういう意味でいうと、受け身な人に比べ、能動的な人はずっと優しい人です。自分で責任をとる人だから。

みんなが黙っている状況で、最初の一言を発する人。

「何食べたい?」に、「中華とかどうかな」と言える人。

「明日どうする?誰呼ぶ?」に、「私幹事やるよ」と言える人。

「誰がやる?」に、「じゃあ私が」と答える人。

道端でうずくまっている人に、「大丈夫ですか」と声をかけられる人。

みんなが、そうするべきかなあと思いつつ、誰かがやってくれれば楽なのになあと思っているようなことを、自ら行える人は優しい人です。

優しさプライスレス

優しさの度合いに、行為の大きさは関係ない。

例えば何百万募金をしようと、そこにパフォーマンスとしての意味合いがある以上、それは純粋な優しさではないと私は思います。それで助かる人がいるからいいじゃん、という意見には完全に同意しますけどね。

ただ、優しさ、という意味でいうと、

例えば、お金のない友達に、「今日たまたま1万円拾ったんだよ」とか嘘言っておごる、みたいな行為の方に遥かに感動を覚えるのです。

親切を行いながら親切に気づかせない、これ以上に品のいい優しさってあるでしょうか。

優しい人が好きだし、優しい人になりたいと思います。

優しさプライスレス、全世界人類が平和でありますように

宇井都