精神の美しさに勝る美などない
私は古谷実の書いている漫画、特に好みが別れがちなヒミズ以降の漫画がすごく好きで、その中でも特に気に入っているのが「サルチネス」だ。
「サルチネス」は古谷実の描く世界の魅力がすごく綺麗にまとまっている作品で、これについても沢山話したいことがあるんだけど、一旦それは置いといて。
漫画の中に最近何度も思い返すセリフがあって、そのセリフを今回の導入にしたい。
「心の優しい人間が偉いんだ/まず大前提に…人に偉いも何もないんだが…強いて言えば人の気持ちのわかる優しい人が偉いんだ」
人間なんて所詮ただの動物だ
人間が自分の利益のために生きているのは当然で、誰かのために優しく差し伸べた手だって、長い目で見たら自分のためだったりする。
みんな自分を優しい人間だと思いたがっているが、遠くで死んだ1000人の命よりも、自分の指の先に刺さったトゲがもたらす不快感に気をとられる生き物、それが人間だ。
犬を去勢して檻に入れて飼いながら、屠殺される牛を見て「かわいそう」とか言えちゃうのが人間だ。
堕胎を批判した同じ口で、死刑制度の存続を叫べたりしちゃうのが人間だ。
みんなクズみたいなもんで、それは誰だってそうだ。
私もクズだ。人間なんてクズだ。クズというか、ただの動物なのだ。だから仕方がない。
動物だって、自分自身の利益のために生きている。
人間だけが他の動物と違い、利他的な精神を持てるなんて思い込みは傲慢であると私は思ってる。
人間は動物だから、際限なく繁栄しようとするのは当然の事だ。
人間に優しさなんて期待するのはアホらしい。
どいつもこいつも等しく価値があり、また同時に無価値なのだ。
でも、やっぱり、それでも
愛のある美しい行動なんてこの世にはない。
基本的には、ない。
全員馬鹿だらけである。
でも、やっぱり、それでも、馬鹿なりに考えて、誰かのために何かをしようとする時がある。馬鹿のくせに。
それは正しいわけではない。人が誰かのために何かをやるのは、別に正しくはない。
正しいという言葉は使いたくない。
正しいというのは、マルかバツか、その二択の中のマル、という意味であるから、こういうところにはふさわしくない。
人間のくせして、動物のくせして、誰かのために何かをしようとするなんて、誠に傲慢であるけれども、ただ、美しいなーと私は思う。
それが愛であるなーと思う。
愛よりも大事なものなんてない(ここだけ切り取ると凄まじく馬鹿っぽいが)。
優しい人間になりたいってのは、人間を超えたいってことなのかも
と、最近思う。自分は動物に過ぎない、それはわかってるけど、でもその枠をどうにか超えてみたい。超えられると思いたい。
超えられるかどうかが大事なのではない。多分人はどこまでも人だ。
でも、人間の枠を越えようとすることが美しく、それを優しさと呼ぶのだと思う。
他人の気持ちなんか永遠にわからない。でもどうにか、わかろうとする、その精神。
その精神に感動しないとしたら、一体何に心を動かされることがあるのか。
その精神以上に大事なものなんてあるのか。
何のために生きているのか。
人生に意味なんかない、どこまでもない。ただ生まれて死ぬだけ、ただ暇つぶしがあるだけ。でもその暇つぶしの間に、そういう美しい瞬間を沢山目にできたら、そして、自分がそのそういう美しいことを起こせたら、それが幸せなんじゃーないのか。
幸せなんか本当はないけど。でも、そうかもしれないと思ったりする。
今日は本当にだだ漏れな感じで、まあそれも良いのでは、的な。
なんでこういう内容になったかというと、今日すごく気の合う女の子の友達にあって、もう純粋にその子と喋っているのが楽しく、その子のために何かをしてあげたいと心から思ったし(別にその子が今困ってるとかではない)、その子が私のために何かをしてあげたいと思ってくれていることがわかったからです。
人生でこういう瞬間はめったにないけど、たまにあると、泣けるぐらい感動があり、感極まってこんな文章も書くのです。
宇井都