怒っているということは多分、囚われているということだ
今日は本当に思っていることを書いた日記になりそう。
まあたまに、いや頻繁にそういうのやってるけど。 宇井都です。
もう世間に対して怒るのを終わりにしたい、ということを最近思っている。
怒っているのは多分、気にかけているからだ。世間の一員でいたいからだ。
先日、Yahoo!知恵袋で「先輩ママ」が「新米ママ」に対して盛大に説教かますのをぼーっと眺めながら、
唐突に、もう気にかけるのはやめよう、と思った。
いつか世の中に受け入れられる人間になれるのではと思っていたし、
持ち前の器用さによってそのような雰囲気だけは作っていたけど、
私のもっと根本的な部分が、ずっと苦しみっぱなしになっている気がする。ていうかつまらんのである。
小さい頃から、子供らしさを押し付けられるのがとても嫌いだった。
成長すると女らしさを押し付けられるようになり、それがまた苦痛だった。
大人になってどうにかこうにか器用にやれるようになってきたけど、
妊娠したら今度は、「母親らしさ」というのが始まった。
これは子供が生きている限り今後ずっと続くだろう。
でももう私は耐えられないと思う。いや、耐えたくない。
もうどう思われようが知ったことではない。
むしろ率先してダメ人間、ダメ女、ダメ母になってやろうではないか。
世間よ、私を見て笑うがいい。
私の子供は「かわいそうな子」と呼ばれるようになるだろう。「ダメ女の子供」みたいなニュアンスで。
だがそれも知らん。それは子供自身の問題だし、どのみちそんなことを気にしてたらろくな人生は送れない。申し訳ないけれど、そこは受け入れる強さを身につけてもらおう。頑張っていただきたい。
友達のことも家族のことも、一切を私の後回しにしようと思う。
自己犠牲なんかクソ食らえである。私は私が幸せになるために生きる。
そんなことをしたら周囲に嫌われるかも、みたいなのはもうやめよう。
それで嫌われるなら結構だ。どんどん離れていくがいい。
まあでも実際のところ自分が幸せになったら周囲にももっと愛情を持てると思うから、そこは楽観している。
いい子ごっこはもうおしまいにしなくてはいけない。
多分それが大人になるってことなんじゃないだろうか。
クズだらけの世の中で、自分だけがいい子でいようなんてムシの良すぎる話である。
私もどうせクズなのだから、どうせなら幸せなクズになってやろう。
というような最近である。
私はこれからどう変わっていくのだろうか。
人はいきなりは変わらない。少なくとも周囲から見れば。
ただ何かが決定的に、私の中で変化しているのがわかる。
もうこれは止められないだろう、ということがわかる。
少し怖い。世間に見放されるのは。異端になってしまうのは。
でもこの恐怖に慣れてしまえば、もうほとんどのことは怖くない、のかもしれない。
来年、再来年が楽しみだ。
どんな別人になっているだろうか。
宇井都